
THE HUNGARIAN
TRAJECTORY
History
History/2026-05-10
ハンガリー歴史探訪
ハンガリーの歴史を簡単にまとめてみたいと思います。同じブダペストの風景でも、歴史を思い浮かべながら眺めてみれば、いつもと違うように見えます。またその時代に建てられた建造物も紹介していきます。観光する際の参考にしてみてくださいね。このページを作成するにあたって、
- YouTube - ファドのゆっくり解説(リンク)、
- 世界史の窓 - ハンガリー王国(リンク)、
- ウィキペディア - ハンガリー(リンク)
- ウィキペディア - Architecture of Hungary(リンク)
を参考にしました。
その1 王国誕生までの道のり
紀元前9世紀 ローマ帝国による支配
現在のハンガリーにあたる土地は古代にはパンノニアと呼ばれ、ローマ帝国のパンノニア属州として併合された。

4世紀頃 ゴート族の侵入
ローマ帝国領各地でゲルマン人の大移動が発生。パンノニアにもゲルマン人の一派であるゴート族が侵入した。

396年 西ローマ帝国への帰属
ローマ帝国が東西に分裂し、パンノニアは西ローマ帝国に帰属することとなった。

476年 オドアケルの王国・東ゴート王国による支配
430年頃、遊牧民のフン族が東方から侵入。ローマとゲルマン人の共闘により撃退されたが、オドアケルによるクーデターで西ローマ帝国が滅亡。パンノニアはオドアケルの王国、やがて東ゴート王国の支配下に置かれた。

6〜9世紀 異民族による支配
パンノニアはランゴバルド族、アヴァール人、ブルガール族(ブルガリア帝国)と、次々と異民族による支配を受けた。

9世紀末 マジャール人の侵入・ハンガリー大公国の成立
遊牧民のマジャール人がウラル山脈を越えて東方から侵入。首長アールパードは896年にハンガリー大公となり、ハンガリー大公国が成立した。これがハンガリーの誕生とされる。

10世紀頃 東西フランク王国との対立
ハンガリー大公国は領土を広げ、西の国境がヨーロッパの東フランク王国や西フランク王国に侵入。アールパードの孫タクショニュは東フランク王国のオットー1世にレヒフェルトの戦いで敗れ撤退。この時キリスト教に改宗した。

1000年 ハンガリー王国の成立
タクショニュの孫イシュトバーンが本格的にキリスト教に改宗。ローマ教皇が彼をハンガリー国王に戴冠し、教皇の権威の下にハンガリー王国が成立した。

その2 ハンガリー王国の興隆と没落
11〜13世紀 領土の拡大
スロバキア・トランシルヴァニアを獲得。カールマーン1世がクロアチアを編入し、ベーラ2世がボスニアを獲得するなど、ハンガリー王国は領土を拡大し続けた。

1240年 モンゴルによる侵攻
ハンガリーはモンゴル軍に大敗を喫したが、モンゴル軍は領土を取ることなく撤退。国王は国内の貴族たちに土地を贈与して城塞を築かせ、国防を強化した。

1301年 アールパード朝の断絶・アンジュー朝の開始
アンドラーシュ3世が死去し、後継者不在のためアールパード朝が途絶える。ナポリ系のアンジュー家出身カーロイ1世が王位を獲得し、ハンガリー・アンジュー朝が始まった。

14世紀初期 ラヨシュ1世による領土拡大
国王ラヨシュ1世はセルビアやナポリを攻撃し、ヴェネツィアから領土を奪還。ザーラ条約によりダルマチアを獲得し、さらにポーランド王位も得た。

14世紀後期 マーリアの即位
ラヨシュ1世の死後、娘マーリアが相続。ポーランドとの同君連合が解消される中、ナポリ王カルロ3世が進軍したが母エリザベタが彼を暗殺し、マーリアが復位。最終的にルクセンブルク家出身ジギスムントとの共同統治が始まった。

15世紀初期 ハンガリー王家の不安定化
マーリアはジギスムントとの間に子供ができないまま死去。ハンガリー・アンジュー朝が断絶。単独の王となったジギスムントはダルマチアをヴェネツィアに再び奪われ、南に成立していたオスマン帝国への対策も迫られた。

15世紀後期 マーチャーシュ1世による領土拡大
マーチャーシュ1世はオスマン帝国を抑えつつ、ボヘミアやオーストリアに進出。しかし1490年に急死し拡大が止まる。

16世紀初期 オスマン帝国による侵攻
ヤギェヴォ家のウラースロー2世が王位を継ぎ、その後継ラヨシュ2世がオスマン帝国との戦いに敗北。彼は戦死し、ハンガリーはハプスブルク家の王領ハンガリー、オスマン帝国領ハンガリー、オスマン帝国の保護国東ハンガリー王国の3か国に分割された。

その3 支配からの解放と大帝国の成立
16世紀中期 分割後の激動期
王領ハンガリーではオーストリア大公フェルディナント1世が、東ハンガリー王国ではトランシルヴァニアの領主ヤーノシュ1世が即位。両者ともに自身を正式なハンガリー王と主張し対立した。

16世紀後期 ハンガリー王位の統一
東ハンガリー王国のヤーノシュ2世が、王領ハンガリーのマクシミリアン2世を王と認め、その代わりにトランシルヴァニア公の称号を獲得。東ハンガリー王国はトランシルヴァニア公国となり、しばらく分裂状態が続いた。

17世紀後期 ハンガリーの統一
1683年にオスマン帝国がオーストリアに侵攻し第二次ウィーン包囲が勃発。オーストリアが反攻に転じ、1699年のカルロヴィッツ条約の締結によりハンガリー全土がオーストリア・ハプスブルク家の王領として統一された。

18世紀初期 オーストリア支配への反発
オーストリアによってハンガリーは植民地同然に扱われ、1703年にラーコーツィ・フェレンツ2世が反乱を起こして独立戦争を開始したが、オーストリアにより鎮圧された。

18世紀中期 オーストリアの衰勢
1735年発生のオーストリア・ロシア・トルコ戦争でオーストリアは敗北し、ハンガリー以外の領土をオスマン帝国に取られた。

1848年 独立の機運の高まり
自由主義者たちによる1848年革命が欧州全体で勃発。混乱に乗じてマジャール人は独立を求め、ハンガリー革命が勃発。一時的に自治政府が成立したが、オーストリアによって鎮圧された。

1849年 独立への執念
マジャール人は諦めず、独立を宣言したのち首都ブダペストを奪還。しかしオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がロシアに助けを求め、ロシアがトランシルヴァニアに進軍。ハンガリー革命は失敗に終わった。

1867年 オーストリア=ハンガリー帝国の誕生
1866年にオーストリアがプロイセンに敗れて帝国が弱体化すると独立運動が加速。1867年にフランツ・ヨーゼフ1世がアウスグライヒ法案を可決し、ハンガリーの形式的な独立を認めた。首都ブダペストが発展し始めた時期でもある。

その4 二度の世界大戦と国家の興亡
1914年 第一次世界大戦
オーストリア皇太子夫妻がサラエボ事件でセルビア人青年に暗殺され、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告。第一次世界大戦が始まった。

1918年10月 秋薔薇革命
第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国の一部として戦い、1918年10月にブダペストで暴動が発生。同年11月にはハンガリー人民共和国の樹立が宣言され、ハンガリーはオーストリアから独立した。

1919年 二度のクーデター
1919年3月にハンガリー共産党のクン・ベーラが革命を起こし、ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国が成立。同年8月には海軍提督ホルティ・ミクローシュの蜂起により新たにハンガリー王国が成立。王国であるが国王候補が定まらず、その間ホルティが摂政として統治した。

1938〜1941年 ナチス・ドイツへの接近
第一次世界大戦後の混乱期、チェコルーマニアがハンガリーに侵攻し多くの領土を失った。ハンガリー国内では領土奪還への意欲から右傾化が進み、ホルティはナチスドイツに接近。ドイツの仲裁で周辺国から領土を奪還した。

1941年 第二次世界大戦
ドイツがユーゴスラビアに侵攻した際にハンガリーは第二次世界大戦に参加。同年の独ソ戦にも参戦したが、ドイツが劣勢になるとホルティは連合との単独講和を画策した。

1944年 ナチスの傀儡
ホルティの講和の動きを知ったヒトラーは、自身の息がかかった矢十字党にクーデターを起こさせ、トップにサーラシ・フェレンツを据えた。ホルティは退職を余儀なくされ亡命。ナチス・ドイツの傀儡政権が誕生した。

1946年 敗戦
ブダペストが陥落してまもなく枢軸国は降伏。ハンガリーは対戦前に周辺諸国から奪った領土を全て返還し、翌年にはハンガリー共和国が成立した。

1949年 ハンガリーの赤化
ソ連の影響を受けて共産主義的なハンガリー勤労者党が政権を獲得。書記長ラーコシ・マーチャーシュはハンガリー人民共和国憲法を制定し、国名をハンガリー人民共和国に変更した。

その5 社会主義と民主化
1953年 非スターリン化
スターリンの死去により共産圏全土で非スターリン化が起きた。人民全体からの不平不満が高まる中、ハンガリー勤労者党内でも改革派が台頭し、スターリン主義者であったラーコシは失脚。ハンガリーでは国内問題を見直す動きが高まった。

1956年10月 ハンガリー動乱
当時の首相ゲレーの退陣を求めるデモが発生。党は大衆に人気のあったナジ・イムレを首相に復帰させたが、ソ連指導部は事態鎮静化のためにハンガリーへ出兵。動乱に関連した市民やナジをはじめとする党幹部も殺害された。

20世紀中期 ソ連との協調と内政の融和
ハンガリー動乱によりハンガリー勤労者党は崩壊。新たにハンガリー社会主義労働者党が樹立された。新首相カーダール・ヤーノシュはソ連と協調しつつ融和的な内政を行い、1968年には市場経済が導入された。

1989年 ハンガリーの民主化
1980年代にソ連の書記長ゴルバチョフが改革を進めると、ハンガリーでも改革派が政権を主導するようになり急激に民主化が進んだ。1989年には憲法を改正してハンガリー社会主義労働者党は一党独裁を放棄し、党名をハンガリー社会党、国名をハンガリー共和国に変更した。

1990年 社会主義の終焉
この年の選挙で、民主化を目指す民主フォーラムが勝利。ハンガリーの社会主義は終焉を迎えた。

1994年 社会主義政権の再誕
民主フォーラムなどの連立政権は市場経済への移行による社会・経済的混乱を原因として政権運営に行き詰まった。1994年に再び社会党が政権を獲得し、その後2002年・2006年の三度にわたり選挙に勝利した。

2010年 右派系政権の再選
社会党のジュルチャーニ政権は選挙公約に反した政策を実施し人気が急落。国民の不満が高まる中、不祥事の発覚なども相次ぎ、反社会党の暴動や抗議デモが発生した。2010年の選挙で野党フィデスに大敗し野党へ転落した。

2026年 フィデスの敗北・政権交代
2026年4月12日の議会選挙で、中道右派の新興野党「ティサ(尊重と自由)」が議席の3分の2を超える大勝を収めた。オルバン首相は敗北を認め、2010年以来16年ぶりの政権交代となった。

最後に
いかがでしたか?私はハンガリーの歴史を学ぶにつれて、住み慣れたブダペストの風景がとても尊いものであると感じました。皆さんもぜひ、歴史に思いを馳せながら、ハンガリーを観光してみてはいかがでしょうか?





