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YONAPO / ESSAYS

黄昏と水際は、国学の言う「はざま」なのか

妖怪は黄昏や水際に出る。そこは、国学に照らせば、生者の世界と死者の世界のはざまに近い場所ではないか、と考えた。宣長の『古事記伝』では、死者は皆、黄泉に往く。黄泉と顕国は「堺」であり、千引石で塞がれた断絶であって、行き来する「はざま」ではない。篤胤の幽冥は、顕国とは別の一処ではなく、顕国の内に重なって人の目に見えない世界で、神・死者・妖魅(疫病神を含む)が同じ幽冥に属する。国学の側に、黄昏や水際を生死の境と論じた箇所は、確認できなかった。そう読んでいるのは、柳田や民俗学の境界論である。ただし柳田自身は、黄昏を「誰そ彼」、人の識別がつかない時刻として説明している。国学から引けるのは「はざま」ではなく、「見えない者は同じ場所にいる」という命題である。

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15件の参考文献 訂正・追記 1件
海に突き出した岩場に立つ鳥居
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PERSPECTIVE / 視点

国学(本居宣長の黄泉観・平田篤胤の幽冥観)と、民俗学の境界論

QUESTION / 問い

妖怪が黄昏や水際に出るのは、そこが生者と死者の世界のはざまだからか

この記事の目次 2項目

前回までの二つの回で、民俗学の側から、穢れと疫病神を確かめた。今回は、その延長として、出発点にあった問いに戻る。

妖怪は、黄昏や水際に出るとされる。光と闇のはざま、陸と水のはざまである。それは、国学に照らせば、生者の世界と死者の世界のはざまに近い場所ということになるのではないか。

この問いを、命題に直す。妖怪が黄昏と水際に出るのは、そこが生者と死者の世界のはざまだからで、国学はそう説明している。

この命題は、三つに分けられる。

  1. 国学は、生と死のあいだに「はざま」を説いたか
  2. 国学は、妖怪の出る場所を、その「はざま」で説明したか
  3. 黄昏や水際を生死の境と読んでいるのは、誰か

先に断っておく。国学は一人の説ではない。ここで確かめるのは、本居宣長と平田篤胤の二人である。二人は、同じ古事記を読みながら、別のことを言っている。

宣長: 黄泉と顕国は「堺」で、隔てられている

宣長の黄泉観は、『古事記伝』巻六にある。伊邪那美命を追って黄泉に往った伊邪那岐命の段の注である。画像で読んだ。

貴きも賤きも、善きも悪きも、死ぬれば、みな此ノ夜見國に往ことぞ1

死んだ人は、善悪や身分を問わず、皆、夜見(黄泉)の国に往く。これが、宣長の死後観である。

では、黄泉と、生者の国のあいだは、どう書かれているか。黄泉比良坂の注に、「此は黄泉と顕國との堺なり」とある1。堺である。そして古事記の本文では、伊邪那岐命は千引石でその坂を塞ぎ、石を中に置いて、伊邪那美命と向かい合い、事戸(離縁の言葉)を渡す。堺は、行き来する場ではなく、塞いで断った場である。

宣長にとって黄泉は、穢れの国でもある。巻七は、母神の神避りを「世の凶悪事の始」とする。そして死について、こう書く2。

凡そ死ぬる所由は、病にまれ何にまれ、みな凶悪事ぞ

病であれ、何であれ、死ぬ原因は、皆、凶悪事(まがごと)である。この「凶悪事」は、黄泉の穢れから生じた禍津日神の所為とされる。巻七は、黄泉を、世の凶悪事が帰り止まる所であり、また出てくる所でもある、と位置づけている2。

ここで確かめられるのは、宣長における死・病・穢れ・禍津日神の連関である。第1回で見た穢れ(死穢)が、国学では黄泉の穢れとして、病と結びつけて説明されている。

では、宣長に「幽冥」の語はあるか。『古事記伝』の全冊を OCR 検索した範囲では、「幽冥」の語は出てこなかった。ただし、「幽事」の語はある。巻十四の注は、こう書く3。

幽事は、言のまゝに加微碁登と訓べし

(幽事は、字のとおりに「かみごと」と訓むべきだ)

注は続けて、顕露事(あらはにごと)を朝廷の政、幽事をそれに対して、目にも見えず、誰の所為ともなく、神がなさる政、とする。宣長の「幽事」は、神の事である。死者の世界のことではない。

さらに同じ巻で、宣長は、神が「隠坐す」ことを、こう注する3。

此国に留まります御霊の鎮坐む処を云なり

現身は根国へ往っても、御霊は、この国に留まって鎮座する。死んだ後の「御霊」が、この国に留まる、という二重の考えが、宣長にもある。

宣長の『答問録』: 神のしわざと、病・薬・死

宣長自身の言葉として、『答問録』も読んだ。『増補本居宣長全集』第六所収の本文を、画像で読んだ4。

まず、「安心」の条である。

世中は何事もみな神のしわざに候、是第一の安心に候、もし此安心決定せずして、神のしわざと申事を假令の如く思ひ候ては、誠に老子にも流るべく候

世の中は、何事も、皆、神のしわざである。それが「第一の安心」だ、という。この条は、老子の「自然」への応答として書かれており、悪神のしわざも、神のしわざに入れる。末尾の編者注に「此二條は本書問の文言なし」とあり、問いの文言は残っていない4。

同じ条の前では、個々人が理屈で立てる安心は退けられる。

小手前の安心と申すは無きことに候

天地の道理や、死後を論じて安心を立てるのは、儒仏の「さかしら」であり、無益の空論だ、とする。そのうえで、死については、こう答える4。

神道の安心は、人は死候へば善人も惡人も、おしなべて皆よみの國へゆく事に候

よみの國はきたなくあしき所に候へども、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬなり

死ねば、善人も悪人も、皆、黄泉に往く。黄泉は穢く悪い所だが、死ねば必ず往かねばならない。だから、この世で死ぬほど悲しいことはない。それを、儒や仏が、悲しむべきでないように言うのは、「眞實の道にあらざる」と退ける4。

病と薬の条は、医療との接続として重要である。「疱瘡神は外国から来た悪神ではないか」という問いに、宣長はこう答える(116頁、画像)。この病は古くはなかったので、その神も外国から来たのだろう。しかし、天地の間の事は、みな禍津日神の御心であり、疱瘡も、疫病も、わらはやみも、皆、神のしわざである。そして、次のように続ける4。

病あるときに、或は藥を服し、或はくさ〴〵のわざをしてこれを治むるも、又みな神の御しわざなり

病も、神のしわざ。それを薬で治すことも、また、神のしわざ。宣長は、病を禍津日神の所為としながら、薬や療治を、その外に置いていない。神の定めおかれた治療として、内に置く。

なお、「安心なき安心」という連続した語形は、『答問録』の画像と、増補全集の OCR 全文検索の範囲で、宣長の原典には見つからなかった。後世の整理語だと見られるが、誰の語かは、今回は確認できていない。

篤胤: 幽冥は、顕国の内に重なっている

篤胤は、宣長の黄泉観を、別の方向へ展開した。『霊能真柱』下巻の一節を、画像で読んだ。

その冥府と云ふは、此顕國をおきて、別に一處あるにもあらず。直にこの顕國の内いづこにも有ねども、幽冥にして、現世とは隔て見えず5

冥府(幽冥)は、顕国をおいて、別にある一つの場所ではない。顕国の内の、どこにでもある。ただし、幽冥であって、現世からは隔てて見えない。

篤胤は、この見え方を、燈火の籠の喩えで説明する。籠を白い紙と黒い紙で仕切って置けば、暗い側から明るい側は見えるが、明るい側から暗い側は見えない5。幽冥からは顕世が見えるが、顕世から幽冥は見えない。見る・見られるが、非対称である。篤胤は、喩えの但し書きとして、冥府が暗く顕世だけが明るい、という意味ではない、とも注意している5。

篤胤の幽冥は、死者だけの世界ではない。古今妖魅考は、妖魅(天狗や化物の類)を、こう位置づける6。

此妖魅ちふ物は、現人の目に見えぬ、幽冥の物にし有れば

(全集の OCR で確認。誤認が多い箇所で、「幽冥の物にし有れば」の部分を読めた。)

同じ書は、疫病神も、この列に入れる。巻四(全集頁二一一)は、画像で読んだ6。

太山府君と云鬼妖魅の較著き物にて、冥官等が中にも酋長なりと聞え、また顕世に疫病の流行せるは、右の文に據れは此妖物の所爲ぞ多かると聞えたり

疫病神は、篤胤の体系では、幽冥の物である。第2回で見た疫病神が、国学では、見えない世界の住人として位置づけられている。ただし、全集の例言によれば、『古今妖魅考』の巻四以降は、無窮會所蔵の写本に拠った本文で、養子の鐵胤の頭書が本文に組み込まれている。この箇所が、篤胤自身の筆か、版本と同じ文言かは、確認していない6。

では、篤胤において、「境」にあたるのは何か。『霊能真柱』下巻の本文を読むと、篤胤は、夜見国と、漢籍の「黄泉」を、はっきり区別している5。

  • 夜見は、月である。「天とは即日のこと、夜見とは即月のことなる」(丁二十。OCR で確認)。世の人が、夜見を地下の国と心得てきたのは、天地が分かれたばかりの頃に、天が頂上、夜見が下方にあった、その名残だという
  • 漢籍の黄泉と、古伝の夜見国は、別のものである。漢籍の黄泉は、地中の泉で、人の魂も屍も黄泉に帰す、というものだ。それを夜見国に当てるのは、大いに相違することではないか、と書く(丁二十八。画像で読んだ)
  • 魂が夜見に往くという古伝はない。同じ丁は、「もし予が此説を疑はむ人は、漢籍のいまだ渡来ざりし前に、…魂の夜見に往くてふことのあるか、考へ観るべし」と挑む(丁二十八。画像)
  • 死は、泉神の所為である。「凡て人の死るは、泉神の御所為。生出るは、伊那岐大神の御恩頼ぞかし」(丁三十一。OCR で確認)

最後の一文は、宣長が『古事記伝』巻七で「凡そ死ぬる所由は…みな凶悪事ぞ」と書いたのと、同じ型である。死・病を、黄泉(夜見)の神の所為とする点で、宣長と篤胤は続いている。一方で、篤胤は、死者の魂を、夜見ではなく幽冥に置く。境にあたるのは、泉津平坂と千引石で、顕国と夜見国のあいだである。生者と死者のあいだではない。

篤胤と医学

篤胤は、医学とも関わっていた。養子の平田銕胤が編んだ年譜(「大壑君御一代畧記」。『玉たすき』の附)に、次の記述がある7。

  • 少年期(天明6年=1786、十一歳の項)に、叔父に従って医術を学び、名を玄琢と称した(OCR で確認)
  • 文化元年(1804、二十九歳)、家号を真菅乃屋と称して「開業アリテ、門人追と進ム」。これは塾の開業と読むのが自然で、医業の開業と断定できない
  • 文化4年(1807、三十二歳)、「再ビ醫師ト爲リ、名ヲ元瑞ト改メ玉フ」(画像で読んだ)。「再ビ」とあり、それ以前にも医師であった時期があったことになる

名は「元瑞」である。「玄瑞」という表記は、今回調べた年譜類には見つからなかった。

『志都能石屋』(『医道大意』)は、篤胤の講説を門人が筆記したもので、扉にそう書かれている8。病については、こう講じている(丁三十九、画像)。

凡テ病ハ邪ナル神ノ所業ジヤニ依テ、薬ニモセロ呪禁ニモセロ、其病ヲ療サウトテ致スコトハ、正直キ神ノ御霊ニ依ルコトデ

病は、邪な神の所業である。薬でも呪禁でも、病を療そうとするのは、正直な(直き)神の御霊による。宣長の『答問録』と同じ型の説明である。病は神(邪神・禍津日神)のしわざで、治療も神の定め(直き神)の内にある。篤胤は、薬と呪禁の兼修を、古道に合うとしている(同書。画像の範囲で確認)。

国学の側に、黄昏や水際はあるか

ここまでの国学の側で、黄昏や水際を、生死の境として論じた箇所は、確認できなかった。

  • 宣長『古事記伝』全冊の OCR 検索で、「黄昏」「薄暮」は、日常語としてしか出ない。「妖怪」「幽霊」はヒットしなかった
  • 篤胤の古今妖魅考と仙境異聞には、場所・時刻(夕暮れ、池のほとり、川)は出てくるが、境界論としては説明されていない(いずれも OCR による確認)

篤胤の『玉襷』には、村の疫病神送りの記述がある(六之巻、頁三七六。画像で確認)7。村里に疫病や痢疾などの病が流行する時、その病のある家で、藁で人形を作って病人に擬え、怪しい装束のものを造って乗せ、杖でそれを逐いながら、村外まで送り出し、持った杖をそこに突き立てて、後を見ずに帰る。これは「謂ゆる疫病神を送る習はし」であり、「此は古意を失はざる為方なり」と書く。村と村との堺に注連を引く習俗にも触れる。第2回で見た、疱瘡神の「送り」と同じ型である。篤胤は、これを、境の観念ではなく、直前に挙げる六月と十二月の晦日の道饗祭という「古意」の側から説明している。

篤胤の『玉襷』には、化物に出会ったときの心得もある。「へうすべ」(水辺の妖怪)や見越し入道が出たと聞いても驚かず、出会ったら、かねて知りたいと思っていた幽冥界のことを問い試みよ、という趣旨である(OCR による確認)。そこでは、水辺という場所に、意味づけはされていない。

では、「はざま」と読んだのは誰か

黄昏や水際を、境界と読む議論は、民俗学の側にある。

柳田國男は、「かはたれ時」で、黄昏を、こう説明した9。

タソガレは「誰そ彼は」であり、カハタレは「彼は誰」であった

そして、夕方を「人に気を許されぬ時刻」と形容し、麻の衣の時代には、人の姿が見定めにくく、足音が近づくまで知った人か他所の人かが分からなかった、と説明する。「鬼と旅人とをほぼ同じ程の不安を以て、迎え見送っていた」とも書く9。柳田の説明は、人の識別がつかないことと、見知らぬ人に会う不安である。生と死の境、とは書いていない。

一方で、柳田は、死者と、辻・橋・水辺の結びつきを、民俗報告として書いている。『魂の行くへ』は、盆に精霊を迎える場所について、こう書く10。

谷川の流れの岸へ、又は橋の袂へ、又は路の辻へ出て迎へる

また、『幽霊思想の変遷』には、葬送の後に辻に竹串を立てて死者を欺す習俗を、伊弉諾尊が櫛を投げ、杖を立てて黄泉の国との境を作ったのと「同一の思想」とする記述がある11。同じ文は、死者の影を放置すれば、疫病を流行らせ害虫を蕃殖させる、とも書く11。

こうして見ると、民俗学の側には、水辺・橋・辻を、死者との関係で読む報告と、解釈がある。小松和彦責任編集『怪異の民俗学 8 境界』の収録論文名にも、「四つ辻とあの世」(高取正男)、「賽の河原」考(本田和子)、「かはたれ時」(柳田)、「生と死の境界」(小松)が並ぶ12。ただし、各論文の本文は、確認していない。

飯倉義之は、別の整理をしている。妖怪が出やすいのは、知り尽くした安心できる生活空間と、その外の「異界」の境目で、水辺は、生活空間の端にあり、最も身近な境界だという。水辺に伝承が多いのは、「身近にありながらも時に人の命を奪いかねないから」である13。ここでの異界は、生活空間の外の不安な場所であり、死者の世界とは限らない。

柳田は、平田派の神隠しの談話に対しては、冷淡だった。『山の人生』で、「各地各時代の神隠しの少年が、見てきたと説くところには、何一つとして一致した点がない」「その少年の知識経験と、貧しい想像力との範囲より、少しでも外へは出ていなかった」と評している14。柳田は、篤胤の幽冥論を、実証的な民俗資料としては扱っていない。

命題は、どこまで成り立ったか

三つに分けた命題の結果は、次のとおりである。

問い宣長篤胤民俗学
生と死の「はざま」を説いたか説かない。黄泉と顕国は「堺」で、千引石で塞がれた断絶説かない。幽冥は顕国の内に重なる。境にあたるのは顕国と夜見(汚穢の国)の間(二次)説く論者がいる(境界論)
妖怪の出る場所をそれで説明したか確認できない。「妖怪」の語が出ない確認できない。妖魅は幽冥の物だが、場所は境界論として説明されない黄昏は識別の難しさ(柳田)。水辺は日常の端で危険(飯倉)
「死者の世界」に限るか幽事は神の事で、死者の世界ではない幽冥は神・死者・妖魅・山人を含む異界は死者の世界に限らない(飯倉)

「国学に照らせば、はざま」は、そのままでは成り立たない。宣長の黄泉は、堺で断たれた別の国であり、篤胤の幽冥は、はざまの向こうではなく、同じ場所に重なって見えない世界である。

国学から引ける近い命題

とはいえ、国学から、筆者の最初の印象に近い命題は引ける。見えない者は、同じ場所にいる、という篤胤の命題である。幽冥の住人(神・死者・妖魅)は、顕世の人から見えないが、幽冥からは顕世が見える。

この命題は、「はざまに出る」ではなく、「どこにでもいるが、見えない」である。そこから、見え方が変わる時刻や場所(夕方の薄暗がり、水面)で、見えない者の気配が感じられやすい、と読むことは、可能である。ただし、これは私の読みであり、篤胤自身は、そう書いていない。

民俗学の側の「境界=生と死のはざま」は、国学の命題ではなく、民俗学の解釈である。しかも、同じ民俗学の中で、柳田の黄昏の説明は、識別不能であって、生死の境ではない。

「生存者バイアス」の四つの区別に当てる

第1回・第2回と同じ点検を、この読みに当てる。

名前この回の場合
生存者バイアス(標本の偏り)私たちが読めるのは、版本・全集・青空文庫に残った国学と民俗学の文章である。国学の周縁の語り(民間)は、別である
確証バイアス黄泉・幽冥・境の語を拾えば、「はざま」の裏づけに見える。「堺」が断絶であること、幽冥が重なりであることは、拾いにくい
事後的な機能の読み込み橋・坂・峠・水辺・厠・夕方まで、何でも「はざま」に読めてしまう。何が反例になるのかを先に決めないと、この読みは検証できない
文化的な選択今回は該当する材料がない

医療との接続として

この回は、民俗学の連載の延長にある、国学の入口の回である。医療との接続は、次の三点である。

  • 病を、見えない者の所為として説明する枠組みが、国学で体系化された。宣長は死と病を黄泉の穢れから生じた凶悪事とし、疱瘡や疫病を禍津日神の御心とした。篤胤は疫病を妖魅(幽冥の物)の所為とし、病を邪神の所業とした。第1回の穢れと、第2回の疫病神は、国学では、同じ説明の中に位置づけられている
  • しかし、その枠組みは、治療を排除していない。宣長は、薬を服することも、療治のわざも、神の定めおかれた神のしわざとした(『答問録』)。篤胤も、薬と呪禁の兼修を古道に合うとした。「病は見えない者の所為」と「医療を受ける」は、国学の内では対立しない
  • 説明する人が、医療に近かった。宣長は、京都で堀元厚と武川幸順に医学を学び、松阪に帰って直ちに医業を開いた(村岡典嗣による。OCR で確認)15。篤胤は、少年期に医術を学び、文化4年には「再ビ醫師ト爲リ」名を元瑞と改めた(銕胤の年譜)7。国学の病の説明は、臨床を知らない者の空論ではない
  • 平田派の幕末の疫病対応は、見つからなかった。安政コレラや麻疹に対する、平田門人・国学者の日記・書簡・著作は、J-STAGE・NDL 全文検索・Consensus で探して、確認できなかった。「国学者が疫病に何をしたか」は、今回の範囲では、篤胤の記述(疫病神送りの肯定)までである
  • 「はざま」という読みは、機能を問われないまま広がる。「はざまに出る」という説明は、何を予測し、何を反証とするのかが、示されないと、第1回・第2回で見た「衛生だった」「危機管理だった」という読みと、同じ型になる

この回で確かめられなかったこと

  • 宣長『玉くしげ』の全頁と、筑摩版全集。『済世録』の診療の内訳(小児科中心かどうかを数で示した資料は確認できなかった)
  • 「安心なき安心」の語の起源(宣長の原典には見つからない。後世の整理語と見られる)
  • 『直毘霊』の本文。禍津日神論は、『古事記伝』と『答問録』で確認した
  • 篤胤の『古今妖魅考』の「幽冥の物にし有れば」の箇所、『仙境異聞』は、OCR での確認で、画像は読んでいない。巻四の頁二一一は画像で読んだが、写本由来で、頭書が組み込まれている
  • 『志都能石屋』の序(門人の筆)と、本文のほかの箇所。丁三十九のみ画像で読んだ
  • 小松和彦『異界と日本人』と宮田登「妖怪のトポロジー」の本文。民俗学の「異界・他界・死者の世界」の整理は、直接確認していない
  • 『怪異の民俗学 8 境界』の各論文の本文
  • 「逢魔が時」の語の初出と、水辺・橋・坂を「あの世との境」とする実証研究
  • 平田派・国学者の、幕末の疫病への対応(探したが見つからなかった)

CORRECTIONS & UPDATES

訂正・追記

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公開後に直したこと。本文は直したうえで、何をどう変えたかをここに残している。本文中の※ が、直した箇所を指す。

  1. 追記篤胤の夜見論と古今妖魅考の疫病の箇所を原典で確認し、宣長『答問録』・篤胤の医学・疫病神送りの記述を追加した2026-10-14 · primary-sources-added公開時は二次(田中義能経由)だった篤胤の夜見論を、『霊能真柱』下巻の本文(丁二十・二十八・三十一)で確認した。夜見は月で、魂が夜見に往くという古伝はないとされ、死は泉神の御所為とされる。『古今妖魅考』巻四の太山府君と疫病の箇所を画像で読み、巻四が写本に拠り頭書が組み込まれていることを注記した。宣長『答問録』の「第一の安心」「皆よみの国へゆく」「病と薬も神のしわざ」の条、篤胤の年譜(再ビ醫師ト爲リ元瑞)と『志都能石屋』の病の説明、『玉たすき』の疫病神送りの記述を加えた。結論は変えていない。

SOURCES & EVIDENCE

参考文献 15

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本文で引用した順に掲載しています。文献名から原典を確認できます。

  1. 1古事記伝 巻六(神代四之巻)国立国会図書館デジタルコレクション(版本、刊年不明) · 『古事記伝』44巻、請求記号 特1-893。第N冊が巻N。画像(コマ7・25)を目視で読んだ。仮名の読みに幅がある · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 死ねば善悪貴賤を問わず皆夜見国に往くという注と、黄泉比良坂を黄泉と顕国との堺とする注
  2. 2古事記伝 巻七(神代五之巻)国立国会図書館デジタルコレクション(版本、刊年不明) · 画像(コマ14・15)を目視で読んだ · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 伊邪那美命の神避りを世の凶悪事の始とし、死ぬ所由は病にまれ何にまれ皆凶悪事とする注、黄泉を凶悪事が帰り止まり、また出来る所とする注
  3. 3古事記伝 巻十四(神代十二之巻)国立国会図書館デジタルコレクション(版本、刊年不明) · 画像(コマ48)を目視で読んだ · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 幽事を「加微碁登」と訓み神の事とする注、顕露事と幽事の対、此国に留まります御霊の鎮坐む処という注
  4. 4答問録(『増補本居宣長全集』第六所収)吉川弘文館、1926(国立国会図書館デジタルコレクション) · 1926 · 画像(コマ63・69、印刷頁116〜117・128〜129)を目視で読んだ。『鈴屋答問録』と同じものとして扱う(書誌の対応表は未作成) · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 「世中は何事もみな神のしわざに候、是第一の安心に候」の条と、善人も悪人も皆よみの国へ行くという条、疱瘡・疫病・病と薬を禍津日神と神のしわざとして説く条
  5. 5霊能真柱 下巻国立国会図書館デジタルコレクション(文化10年刊の2巻本、請求記号 837-30) · 1813 · 画像(コマ40=丁三十八、コマ30=丁二十八)を目視で読んだ。丁二十(夜見は月)・丁三十一(泉神の御所為)は NDL ラボの OCR テキストで確認(画像は未精読)。仮名の読みに幅がある · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 冥府は顕国をおいて別に一処あるにもあらず顕国の内にあるという記述と燈火の籠の喩え。夜見は月であること。漢籍の黄泉と夜見国を区別し、魂が夜見に往くという古伝はないとする論。人の死は泉神の御所為、生まれ出るのは伊那岐大神の御恩頼という記述
  6. 6古今妖魅考(『平田篤胤全集』第8巻所収)内外書籍、1933(国立国会図書館デジタルコレクション) · 1933 · 巻四の頁二一一は画像(コマ114)で読んだ。「幽冥の物にし有れば」の箇所は NDL ラボの OCR のみ(誤認が多い)。全集第8巻の例言によれば、巻四以降は無窮會所蔵の写本に拠り、鐵胤の頭書が本文に組み込まれている · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 妖魅を現人の目に見えない幽冥の物とする記述と、太山府君を妖魅の酋長とし疫病の流行をその所為とする記述
  7. 7玉たすき 六之巻、および附「大壑君御一代畧記」(『多満太須幾』所収)青葉書房、1944(山田孝雄校。国立国会図書館デジタルコレクション) · 1944 · 画像(コマ241=頁三七六、コマ358=附頁六〇二)を目視で読んだ。『玉たすき』は篤胤の講説。附の略記は養子・平田銕胤の編 · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 村里の疫病神送りの習俗を「古意を失はざる為方」とする記述。篤胤の経歴(文化4年「再ビ醫師ト爲リ、名ヲ元瑞ト改メ」、文化元年の真菅乃屋の開業)
  8. 8志都能石屋 上(『志都能石屋講本』一名『医道大意』)国立国会図書館デジタルコレクション(文化8年=1811、門人の筆記) · 1811 · 画像(コマ46=丁三十九)を目視で読んだ。扉に「大壑 平田先生講説 門人等筆記」とあり、篤胤の講説の筆記である · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 病は邪なる神の所業であり、薬にも呪禁にも直き神の御霊が相応するという講説
  9. 9かはたれ時(『妖怪談義』所収)初出『ごぎやう』9巻11号、1930。講談社学術文庫(青空文庫) · 1930 · 青空文庫で確認 · accessed 2026-10-14裏付けた主張: タソガレを「誰そ彼は」とし、夕方を人に気を許されぬ時刻とし、人の識別の難しさと鬼と旅人への不安を述べる記述
  10. 10魂の行くへ初出『若越民俗』5巻2号、1949(青空文庫) · 1949 · 青空文庫で確認 · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 精霊を谷川の岸・橋の袂・路の辻で迎えるという報告と、死者の魂が同じ国土を離れず山の高みから子孫を見守るという考え
  11. 11幽霊思想の変遷初出『変態心理』2巻6号、1917(青空文庫) · 1917 · 青空文庫で確認 · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 葬送後に辻で亡霊を欺す習俗を伊弉諾尊の櫛・杖と同じ思想とし、放置された死者の影が疫病を流行らせるとする記述
  12. 12怪異の民俗学 8 境界河出書房新社、2001(小松和彦責任編集) · 2001 · 国立国会図書館の書誌データの収録論文一覧のみ確認。各論文の本文は未確認 · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 境界の場所・時を主題とする論集の収録論文名と著者(宮田登「妖怪のトポロジー」、高取正男「四つ辻とあの世」、柳田國男「かはたれ時」、小松和彦「生と死の境界」ほか)
  13. 13異界との境目「水辺」に現れる妖怪(飯倉義之氏へのインタビュー)ミツカン水の文化センター『水の文化』53号 · 2016 · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 妖怪が出やすいのは生活空間と異界の境目で、水辺は最も身近な境界であること、黄昏(誰そ彼)の時刻、水辺に伝承が多い理由
  14. 14山の人生初出『アサヒグラフ』1925(青空文庫) · 1925 · 青空文庫で確認 · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 平田派の神隠しの談話について、少年の知識経験と貧しい想像力の範囲を出ていないとする評
  15. 15本居宣長岩波書店、1928(国立国会図書館デジタルコレクション) · 1928 · NDL ラボの OCR テキストで確認(誤認あり)。画像は未確認 · accessed 2026-10-14裏付けた主張: 宣長の京都遊学での医学の師(堀元厚・武川幸順)と、松阪に帰って直ちに医業を開いたこと