前回は、穢れが衛生だったのかを延喜式の条文から確かめた。結論は、重なりは部分的に本当だが、「衛生だった」とは言えない、というものだった。
今回は妖怪と疫病神である。私の最初の印象は、こうだった。妖怪はおおむね人目につかない場所にいる、古くて汚いものだ。それは結果として、人を危険から遠ざける方向に働いている。
検証する前提を、一文に直す。妖怪・疫病神の伝承は、人を危険から遠ざけるために語られた。
この前提を、三つの点で試す。どこに出るのか(場所)、どんな姿なのか(姿)、何をしろと言ったのか(求めた行動)である。
史料の整理
場所: 人目につかない所か
まず「妖怪」という語が、何を指すかを確かめる。小松和彦は、「あやしいもの」「あやしいこと」と広く理解しておく、と書く。家の中で「あやしい」と思われる音がすれば、それがそのとき妖怪になる。家族の一人の顔や身振りも、そうなりうる1。
同じ文章で小松は、妖怪研究者が実際の考察の対象に選ぶのは、物語化・絵画化された妖怪群がほとんどだとも書く1。「妖怪」の全体を見ているのではなく、語り継がれ、描かれたものを見ている。この点は、後で標本の偏りとして戻ってくる。
では、どこに出るとされたのか。柳田國男は、妖怪を、出現する場所が決まっており、宵や暁の薄明かりの時間帯に現れるものとした。ただし、この仮説にあてはまらない例を挙げて否定する研究者も多い、と馬場真理子は整理している2。
飯倉義之は、場所についてこう説明している3。
- 妖怪が出やすいのは、生活空間と異界の「境目」である。橋、坂、峠、水辺、そして家の中ではトイレや風呂などの水場。時間では、昼と夜の境の夕方
- 水辺は「いちばん身近にある境界」で、伝承が多いのは「身近にありながらも時に人の命を奪いかねないから」
- 池・沼・川には妖怪伝承が多く残るが、海や浜辺はそれほど多くない。海は妖怪より、海の主がいるという考えが一般的だった
人目につかない場所、というより、知り尽くした生活空間のきわである。私の最初の印象は、この点で修正が要る。
姿: 古くて汚いものか
姿については、疫病神の絵がある。竹原直道は、絵画に描かれた疱瘡神(疫病神)の姿を、こう整理している4。
鬼の形をしたものもあるが、普通の人と変わらぬもの、老人あるいは小児に描かれたものと、どちらかというと恐ろしいとはいえない姿が多い。
歌川国芳が描いた疱瘡神は童形で、着物の柄に、だるま、みみづく、でんでん太鼓、鯛車が描かれている。これらは疱瘡除けの玩具模様である4。
竹原は同じ箇所で、疱瘡神の性格が、子どもを疱瘡から守る護神から、疱瘡をうつして回る疫病神まで様々であり、後期になるほど疫病神の性格が強くなった、とも書く。それは、疱瘡が流行病であるという認識が広まったことを示す、と竹原は読む4。ロータモンドも、江戸の人々は疫病を起こすこの種の神を、壊滅的な流行を起こすものとして恐れつつ、同じ病から守ってくれるものとしても見ていた、と書く5。
古くて汚い姿、とは言えない。ただし、この節で確かめられたのは疱瘡神という一類型の姿であり、妖怪全体の姿ではない。
求めた行動: 何をしろと言ったか
一番重要なのは、ここである。疫病神は、人々に何をするよう求めたのか。
疱瘡絵。疱瘡絵は、近世から近代初頭にかけて、子どもの疱瘡の治癒を願って用いられた紅一色摺りが中心の版画である。石垣絵美によれば、使用後に川に流したり焼却したりするのがふつうだったため、現存する点数は極めて少ない6。
先行研究のロータモンドは、疱瘡絵の構成要素を三つに整理した6。
- 疱瘡除けの呪的効力を持つ人物や事物によって、疱瘡を予防する
- 祝祭的な呪力によって、疱瘡を押さえ込む
- 子どもの遊びや笑い、快復を連想させるもので、健康を予祝する
ロータモンドは、疱瘡に直接挑んで闘うような表現が少なく、予祝や祝祭的な図柄が多いことを、疱瘡に対する人々の無力感の反映と読んだ6。同じ著者の2001年の論文は、疱瘡をめぐって、呪術的思考に基づく実践と、きわめて近代的な性格の措置とが、種痘が普及する19世紀半ばまで並存していた、と整理している5。
石垣自身は、もう一つの面を指摘する。近世の日記に記録された罹病者への対処は、育児書・医学書に書かれた症状の経過段階ごとの対処と一致する。当時の人々は、医学書と同程度の疱瘡の症状に関する知識を持っており、段階ごとに行う習俗もその知識に対応していた、というのである6。
具体例がある。元禄16年(1703)の育児書『小兒必用養育草』は、病室に赤い衣類をかけ、子にも看病人にも赤い衣類を着せよ、「痘の色は、赤きを好とする故なるべし」と書く。石垣は、疱瘡が赤い色を好むという認識が当時すでにあった、と読む6。
疱瘡絵の中には、具体的な指示を書き込んだものもある。石垣が挙げる「疱瘡養生艸」は、次のとおりである6。
| 項目 | 絵の文言(抜粋) |
|---|---|
| 薬 | 初日より二日置に奇應丸一粒づつのますべし |
| 症状への対処 | のんどつまりし時は南天の実を猪口に一盃ほどせんじ用うべし。山のあがらぬ時はからしをせんじ |
| 忌み | 家内へいれぬもの 其子の母親髪結ことをいむべし。第一房事、貝藻ハ七十五日いむなり |
| 食物 | 本うみのちハあふらものるいそうじてわろし |
これらが医学的に妥当だったかどうかは、本稿では評価していない。確かめられるのは、疫病神の絵の隅に、看病の具体的な知識が載っていたことである。
疱瘡神の送り。石垣は、辻に注連縄を張って疱瘡の侵入を防ぎ、疱瘡神の棚を辻に送り出す、という事例から、病気は外界から悪霊的に憑依してくるものだとする病気観が見て取れる、と整理している6。侵入を防ぐ(遠ざける)ことと、棚を設けて送り出す(もてなして帰ってもらう)ことが、一組になっている。疱瘡神は、避けるだけの相手ではなかった。
橋本伯寿。江戸後期の医師、橋本伯寿は『国字断毒論』で、痘瘡を流行時疫と心得るべきで、「痘神の病しむる」などと心得るのは「甚あやまり」だと書いた6。ロータモンドは、これを、そうした態度に対して19世紀初頭に上がった「孤立した声」と位置づける。橋本は、疱瘡の伝染性を初めて明確に警告し、回避と隔離による感染の防止を勧めた医師だった5。疱瘡を疫病神の仕業とする見方は、当時すでに一人の医師によって退けられていた。しかし、それは多数派の見方ではなかった。
アマビエ。弘化3年(1846)、肥後国の海中に現れたとされるアマビエは、「もし疫病が流行したら、私の姿を描いた絵を人々に見せよ」と告げたと伝わる7。求められたのは、姿を描いて見せることで、回避や隔離ではない。
2020年の流行について、小松和彦は、疫病除けの効果よりも、コロナウイルスの恐怖を和らげたいという心情の表れだと分析した、と新聞報道をまとめた福井敬は書く7。JTB総合研究所の調査では、「効力を期待しないが、人が少しでも明るい気持ちになればよい」が22.4%、「少しでも効力があればよい」が13.5%、「非論理的なものがはやるのはよくない」が28%だった7。
麻疹絵。文久2年(1862)の麻疹の流行では、麻疹を人型の存在として描き、追い出す絵が出回った。V&A のブログによれば、そのほぼすべてに、食事の助言と、回復中にしてはならないことの記述があり、中には疑わしい内容もあった8。モリスの分析では、『麻疹養生鑑』には171の食品が挙がり、麻疹絵5点には28から49の食品が挙がる。複数の資料に載る食品のうち、過半数(4点以上)に載る32品では、18が推奨、14が忌避だった9。
水辺: 支持される部分
ここまでの材料は、危機管理の主張にとって厳しい。唯一、支持寄りに読めるのが、水辺の河童である。
青森県津軽地方のスイコ様(河童の神格化)について、小山隆秀が各地の語りを整理している10。
- つがる市稲垣再賀集落: 用水路や堰、小川が多く、落ちて水死した子どもたちの供養のためにスイコ様を祀った、という
- 田舎館村大根子集落: 近くの川で9歳の子どもが溺死して以来、9年ごとに子どもが水死するようになり、「カッパがいる」というので観音様を祀ったところ、水死者がいなくなった、という
- つがる市木造: 水に引き込むカッパが水虎様で、溺死する子どもが多いため、それを防ぐために100年以上前に勧請した、という。水虎大明神の木像は明治21年(1888)に建立された
- 川へ行く子どもは、河童が溶けるとされるオガラ(麻幹)を髪にさして行った。キュウリの種を川に投げて「これをやるから取るなよ」と言った
飯倉は、青森・八戸で、農業用水に子どもを近づけないために「よるな近づくな。メドツが出るぞ」と書いた看板が設置され、用水路の暗渠化で不要になった、と述べる3。
しかし、これらは語りである。
- 稲垣再賀は「溺死した子どもの供養」、田舎館は「溺死が続いた後」で、祀る行為は水死の後に置かれている。祀った後に水死者がいなくなったという記述は、伝承の語りであり、件数の比較ではない
- 河童・スイコ様の分布は、津軽平野の岩木川沿い、17世紀中後期から弘前藩が開発した新田地帯と重なる。つまり用水路と堰が増えた地域である10
- 看板の設置経緯と設置の意図について、一次資料は確認できていない(インタビューでの言及である)
- 河童伝承の分布と水難統計を突き合わせて検証した研究は、探した範囲では見つからなかった。存在しないことの証明ではない
- 近い検証が一つある。怪異・妖怪伝承データベースの33,378件を地図に当てた2026年の査読論文は、河童の記録に水の場の語が78.0%に現れる(置換の帰無は23.1%)ことを確認した。著者らはこれを、記録の言葉の構造の確認であり、新しい民俗学的知見ではないとする。別の診断では、自治体に位置づけられた1,231件のうち河童は48件で、主要な水域までの距離の中央値は0.371 kmだった。置換の帰無の中央値は0.283 kmで、「河童の記録は水域に近い」という仮説は支持されなかった(片側p=0.93)。著者らは、これを限定的な否定的診断と呼ぶ。自治体単位の代表点を使っており、水域図は全国規模の文脈向けで詳細な局地の水文には適さない、と著者ら自身が限定している11。この診断は、用水路のような小さな水を除いた、大きな水域との近さを見ており、水難との関係を見たものではない
隔離: 実際の感染対策と、その代償
疫病神の枠組みと、実際の感染対策が重なった事例が一つある。長崎県の大村、五島、天草である。
賈文夢によれば、これらの地域は、天然痘が流行しないとされていた土地(香西豊子の言う「無痘地」)だった。患者が存在しなかったのではなく、徹底した隔離政策によって、天然痘ウイルスのない空間を作ろうとしていた。賈は、こうした政策を疫病対策の一つと位置づけている12。
その実態を、賈は『大村藩の医学』(1930)の記述から引いている。疱瘡は「鬼神の依託なり」として、罹患者は人家を離れた山中の木屋に送られ、定めた看病人以外は一切交通を絶った。親子夫婦でも立ち寄れず、「十の七八は斃れ死し、全快して家に帰るは稀」だった。全快しても多くは畸形盲目となり、縁談は見合わされ、「一人前の人間とは認めざる有様」だったという12。大村藩医・長与俊達の自伝にも、ほぼ同じ「十の七八は斃れ死し」の記述がある12。
患者は死後も一般の墓地に葬られず、隔離された場所に疱瘡墓が設けられた12。
ここで確かめられるのは、次の三点である。
- 隔離という感染対策は、実際に行われた
- その地域では、疱瘡は「鬼神の依託」と語られていた
- 隔離された人の、少なくとも「十の七八」は死んだと、同時代の記述にある
1と2が同じ地域に併存したことは確かである。しかし、鬼神の観念が隔離を生んだ、あるいは隔離が鬼神の観念に支えられた、という因果は、賈の記述からは読み取れない。看病の手が届かなかったこと、死亡率の高さは、隔離そのものの帰結とも、看病の欠如の帰結とも言える。この資料だけでは切り分けられない。
標本の偏り
今回の材料には、標本の偏りが、少なくとも三つ見える。
私見・考察
前提は、どこまで成り立ったか
「妖怪・疫病神の伝承は、人を危険から遠ざけるために語られた」を、三点で試した結果は次のとおりである。
| 点 | 結果 |
|---|---|
| 場所 | 人目につかない所ではなく、生活空間のきわ。水辺は最も身近な境界とされる |
| 姿 | 疱瘡神は恐ろしくない老人・子どもの姿が多い。古くて汚い、とは言えない(疱瘡神という一類型についての確認) |
| 求めた行動 | 遠ざける(注連縄、忌み)だけでなく、もてなして送り出す、姿を描いて見せる、祈る。絵の隅に、看病の知識が載っていた |
疫病神への対応は、危険から遠ざかることに尽きなかった。遠ざけること(注連縄、忌み)の隣に、送り出すこと、描くこと、祈ることがあった。そこにあったのは、制御できない病との、関わり方である。疱瘡神は送り出し、アマビエは描き、麻疹は絵の中で追い出した。これは私の読みであり、ロータモンドの「無力感の反映」という読みとも、石垣の「生活感覚的な慣れ」という読みとも、重なる部分と違う部分がある。
危機管理として読める部分
とはいえ、危機管理として読める部分は、確かにある。
- 水辺の河童: 場所の側から、水難との結びつきが読める。ただし未検証であり、祀る語りは水死の後に置かれている
- 疱瘡絵の養生知識: 医学書と段階ごとの対処が一致する。ただしこれは妖怪・疫病神が危機管理を促したのではなく、疫病神の絵という媒体に、当時の看病の知識が載ったのである
- 大村の隔離: 実際の感染対策だった。ただし妖怪・疫病神の観念が隔離を生んだとは確かめられず、隔離された人の多くが死んだ
当初の見通しより、書ける範囲は広くなった。水辺だけでなく、疱瘡絵の養生知識と隔離も、危機管理として読める。しかしそのどれもが、「妖怪・疫病神の伝承が、人を危険から遠ざけるために語られた」ことの証拠にはなっていない。
「生存者バイアス」の四つの区別に当てる
前回と同じ四つに、今回の材料を当てる。区別は私の整理である。
| 名前 | 今回の場合 |
|---|---|
| 生存者バイアス(標本の偏り) | 疱瘡絵は流す・焼くので現存が少ない。データベースの採録に地域差がある。研究者は物語化されたものを選んでいる。この意味での偏りは、実際に確かめられる |
| 確証バイアス | 水辺の河童と、疱瘡絵の養生だけを拾えば「危機管理」に見える。恐ろしくない姿、予祝、送り出しは拾いにくい |
| 事後的な機能の読み込み | 「メドツが出るぞ」の看板を、危険回避の仕組みと読むこと。設置の意図は確認できていない |
| 文化的な選択 | 前回のフィジーの研究のように、何が有益で、どう伝わったかを測った研究は、今回の範囲では確認できなかった |
医療との接続として
この回で持ち帰るのは、次のことである。
- 伝承を評価するときは、何をしろと言ったかを見る。場所や姿だけでは、危機管理かどうかは決まらない
- 疫病神の絵が運んだのは、看病の知識と、祈りと、恐怖を和らげる働きだった。アマビエの2020年の流行も、効果への期待より気持ちに向いていた(小松の分析、世論調査の割合)
- 隔離という実際の対策が、病者の遺棄に近い形で行われた。前回の穢れと同じく、「役に立った」と「害になった」は、同じ枠組みの両面として数える
この回で確かめられなかったこと
- 付喪神(古い道具の妖怪)や垢嘗(垢を舐める妖怪)が「古くて汚い」の例になるかは、Wikipedia 経由の記述しか見つからず、原典で確認できなかったため扱っていない
- 疱瘡神の「古い」「汚い」姿や、疱瘡以外の疫病神(コレラ、麻疹)の姿は、体系的には調べていない
- ロータモンド『疱瘡神』、香西豊子『種痘という〈衛生〉』は、引用経由で見ている
- 『大村藩の医学』と長与俊達の自伝の原典、麻疹絵の原本は見ていない
- 疱瘡絵の養生の記述の医学的妥当性は評価していない
- 河童伝承の分布と水難統計を突き合わせた研究が、存在するかどうかは確認できていない。水域との近さの診断(Shimizu ほか 2026)は、自治体の代表点と全国規模の水域図による限定的な検証である
- 憑きもの(狐憑き・犬神)は、害の側の材料が多いため、別の回で扱う