穢れと聞いて、私が思い浮かべるのは血であり、水が淀んだ場所だった。これは、現代の知識に照らせば、病原体のリスクが高い場所と重なる。
妖怪も、おおむね人目につかない、古くて汚い場所にいる。昔話には教訓が含まれていることが多い。どれも、結果として危機管理に役立つ方向に働いているように見える。
そこで私は、民間伝承は生存者バイアスの産物ではないか、と考えた。有害な慣習を持った集団は消え、有益な慣習を持った集団が残った。だから今に残る伝承は、たまたま役に立つものばかりに見える、という筋である。
この問いを三つに分けて、一つずつ確かめる。穢れ、妖怪と疫病神、昔話の教訓である。今回は、穢れだけを扱う。
問いを分ける
「穢れは衛生だったのか」には、少なくとも次の三つの主張が混ざっている。
- 穢れの対象は、病原体のリスクが高いものと重なる(対象の主張)
- 穢れの規範は、実際に感染を減らす働きをした(機能の主張)
- だから穢れの観念は、そうした働きをしたものが選ばれて残った(選択の主張)
1は条文を読めば確かめられる。2は、規範が何を定めていたかと、その結果として何が起きたかで確かめられる。3は、1と2が成り立ったうえで、さらに別の証拠が要る。
最初に断っておくことがある。私の問いは「民間伝承」だが、穢れを定式化した最古級の規定は、朝廷の法である。確かめられるのは、貴族社会の枠組みとしての触穢1であって、民間でどう実践されたかは別の史料が要る。今回確かめるのは、朝廷の規定までである。
この区別には理由がある。ベルンハルト・シャイトの論文は、死の穢れの禁忌を、古くからの民間信仰の産物とする見方に対して、高取正男の批判を紹介している。高取は、神道の死の禁忌が機能するには死者を扱う別の宗教(仏教)が必要で、死の禁忌は、7世紀から9世紀にかけて古代の中央集権国家が成立する過程の副産物として形をとった、と論じた2。民間の古層から来た観念を、朝廷の規定が書き留めた、と素直に前提してはならない。
史料の整理
延喜式は、何を穢れとしたか
穢れの規定は、延喜式(927年成立)の巻三、臨時祭の一条にある。転写の文面は次のとおりである。割注は〔 〕で示す3。この文面は、国史大系(黒板勝美校訂)の該当頁と照合して一致した4。
凡触穢悪事応忌者。人死限卅日。〔自葬日始計。〕産七日。六畜死五日。産三日。〔鶏非忌限。〕其喫宍三日。〔此官尋常忌之。但当祭時。余司皆忌。〕
読みは次のとおりである。穢れに触れて忌むべき事柄は、人の死が30日(葬の日から数える)、産が7日、六畜の死が5日、産が3日(鶏は忌の限りではない)、肉食が3日。
同じ巻の続く条には、次のものが並ぶ3。
| 事柄 | 日数・扱い |
|---|---|
| 弔喪・問病・山作所に至る・三七日の法事に遭う | 「身は穢れていないが、当日は内裏に参入してはならない」 |
| 改葬、4か月以上の傷胎 | 30日 |
| 3か月以下の傷胎 | 7日 |
| 宮女の懐妊、月事 | 懐妊は散斎の前に退出。月事のある者は祭日の前に退いて宿廬に宿る |
| 失火の所に触れる | 神事の時に7日 |
ここで二つ確かめられる。
第一に、「血」の字は、この巻の転写に出てこない。水の停滞を言う規定も見当たらない。挙げられているのは、死・産・六畜の死産・肉食・月事・失火という「事」である。私の最初の印象、つまり血と淀んだ水は、条文からは出てこない。
ただし、血との結びつきを研究者が見ていないわけではない。シラネは触穢を死穢・産穢・獣穢・火穢に整理したうえで、「概して触穢は身体にかかわる生理的な過程であり、とくに死・出産・月経の血の穢れである」と総括している1。血は、条文の語ではなく、研究者の総括の語である。私が「穢れ=血」と思ったのは、この総括の側に近い。
第二に、この条が定めているのは、参入と祭祀の制限である。弔喪や問病については「身は穢れていないが、当日は内裏に入れない」とあり、穢れに触れて死葬に関わった者は、神事の月でなくても諸司や陣・侍従所に着けない3。喫宍の割注は、神祇官は平常これを忌み、他の官司は祭の時に限って忌む、と書く。書かれているのは、宮廷の行事に誰が出られるかであって、病気の予防や、隔離の指示ではない。
重なって見える部分
死体、産、血を伴う過程、家畜の死は、たしかに病原体への曝露が起こりうる場面である。しかも嫌悪という感情は、病原体のリスクと対応する。4万人超のウェブ調査で、病原体の脅威を持つ対象の画像は、そうでない類似の画像より有意に嫌悪的だと報告され、この傾向は世界のすべての地域で見られたという5。
さらに、条文の細部にも、衛生と整合的に読める箇所がある。鈴木英鷹が引く山本幸司の整理では、次のとおりである6。
- 穢れの対象になるのは家畜(六畜)で、人間と生活を共にし、家族に準ずる存在だったから。野生獣の死や産は、本来、穢れと無関係だった(内裏に走り込んだ狐を打ち殺しても問題とされなかった)
- 白骨は穢れとならないのが慣例だったと推定される
腐敗する遺体は穢れで、乾いた骨は穢れでない。この線の引き方は、遺体の腐敗段階で危険度が違うことと整合的に見える。ただし、これは山本の推定であり、判断の理由が衛生だったという記述ではない。
重ならない部分
条文には、重ならない部分もある。
鶏は、忌の対象から外されている。家畜の死産の注に、鶏は忌の限りに非ず、とある3。鈴木は、六畜は馬・牛・羊・犬・豚・鶏だと整理しており6、家畜のうち鶏だけが日数の規定から外れている。鶏だけを外した理由を、衛生の観点から述べた史料や研究は、今回確認できなかった。
問病は、「身不穢」と書かれている。病人を訪ねる行為が穢れを生むとは書かれておらず、その当日の内裏参入が制限されるだけである。丸山裕美子は、並ぶ項目がすべて死にかかわることから、問病の規定は死に遭遇する可能性の高さに結びつくと推測している7。
日数の根拠を述べる研究は、確認できなかった。30日・7日・5日・3日が潜伏期間や感染期間の観察に由来する、と述べる史料も研究も、今回探した範囲では見つからなかった。むしろ平安中後期に向けて、触穢の後に忌む日数は延びていった。研究者のあいだでは、これは深刻さの増大の指標であり、同時に何が穢れかをめぐる議論が増え、定義が曖昧になった指標でもあると整理されている7。日数の延長は、穢れへの懸念の強まりとは整合する。しかし、日数が観察によって調整されたことを示す材料にはならない。
伝染の規定は、感染に似ているか
穢れの伝染は、条文では次のように書かれている3。
凡甲処有穢。乙入其処。〔謂著座。下亦同。〕乙及同処人皆為穢。丙入乙処。只丙一身為穢。同処人不為穢。乙入丙処。人皆為穢。丁入丙処不為穢。
読みは次のとおりである。甲の場所に穢れがある。乙がそこに入る(割注によれば「着座」すること)。乙と、同じ場所にいる人は皆、穢れる。丙が乙の場所に入った場合は、丙一身だけが穢れ、同じ場所の人は穢れない。乙が丙の場所に入れば、人は皆穢れる。丁が丙の場所に入っても穢れない。
穢れは、人から場所へ、場所から人へ伝わる。この点は、感染症の伝播に似ている。史料には、疫病の流行を言う「展転」という語が、穢れの伝わりにも使われることがある7。
だが、似ているのは形だけである。三つの点で違う。
- 伝染の条件は、接触ではなく着座である。割注が「著座」と明記する。マコーマーによれば、穢れの伝染は甲・乙・丙・丁の四つの位置の直線的な連鎖として定義されていた7。感染症の伝播に特有の、距離や暴露量による連続的な変化は、この規定には書かれていない
- 伝染は段階で切れる。丁は穢れない、と条文が区切っている。これは法的な線引きであり、感染力の減衰を観察して書いたものとは読めない
- 穢れは身体に現れない。マコーマーは、穢れは身体に現れるものとは理解されておらず、穢れた人は「ほとんど無症状で、気づかないまま複数の人や場所を汚染しうる」と書き、ここに病と穢れの無視できない違いがあるとする7。病は多くの場合、症状として本人に認識される。穢れは、触れた事実によって決まる
病は、穢れだったのか
ここが、医療にとって最も重要な点である。
マコーマーの論文は、冒頭の要旨で、こう書いている。「研究者は長らく、古代・中世の日本で病が穢れの一種だったことを自明のこととしてきたが、これまで、それが確かめられたのは癩の一例だけである」7。
彼は、病が穢れと見なされなかった例を挙げる7。
- 百済の庭師で白癩だった者が、国に雇われた例
- 戸籍の上で、病や障害のある人が戸主となり、奴婢を所有した例
では、病者を家の外に出して死なせる慣習は何だったのか。鈴木は、病を穢れとする思想が古くからあり、看病を怠り病者を遺棄する者もあった、と整理している。『日本後紀』弘仁4年(813)6月の記事は、こう書く6。
今天下の人、各僕隷有り。平生の日、既に其の力を役し、病患の時、即ち路辺に出だす。人の看養する無く、遂に餓死に到らしむ。
禁令は、五位以上は名を記して奏し、六位以下は杖で一百とする、と定めた。しかし鈴木によれば、この禁止は守られた形跡がない。『続日本後紀』承和2年(835)12月の小野岑守の卒伝は、太宰大弐の時に続命院を建てて病人を収容したが、それまでは主家が死人を忌んで病人を追い出したため、道路で凍え死ぬ者が多かった、と書く6。
病者を出したのは「病が穢れだから」ではなく、家の中で死なれると家全体が穢れるから、とする読みもある。マコーマーは、丸山らに拠って、病者の遺棄は病の穢れへの恐れというより、死による家内の汚染を避ける予防措置だった可能性が高い、と述べる7。どちらの読みでも、病者は家の外に出され、看病されずに死んだ。
重なりが生まれた場所
では、穢れと病の結びつきは、いつ確かめられるのか。マコーマーが論じるのは、平安後期の傳屍病(でんしびょう)である。唐代の中国医学書に由来する病の概念で、結核の古い呼び名ではないかと推測する医学史家もいる。その語が日本の貴族と僧侶のあいだで現実の患者に使われ始めたのは、12世紀の後半だった。マコーマーは、この病の出現を、遺体で溢れた都での死穢への不安に遡って論じている7。
マコーマーによれば、医学書の記述を知った貴族は、道端の遺体を、穢れの場であるだけでなく、病の伝染源としても見るようになった。これによって穢れは「病因論的な次元」を帯びた、と彼は書く7。
この議論に従えば、結びつきは、穢れが衛生の知恵だったから生じたのではない。穢れの観念と、医学書の伝染の概念が出会って生じた。時期も、延喜式の規定ではなく、12世紀の後半である。
私見・考察
「生存者バイアス」と呼べるのは、どこまでか
私が最初に使った「生存者バイアス」という語には、別々のものが四つ混ざっていた。この四つの区別は私の整理である。三つを名指しで区別した文献は、今回探した範囲では見つからなかった。
| 名前 | 内容 | 穢れの場合 |
|---|---|---|
| 生存者バイアス | 選別を通過したものだけを見て、通過しなかったものを見ていない標本の偏り | 確かめられるのは、史料の側の偏りである。今回扱えたのは朝廷の規定と貴族の記録で、民間の実践ではない |
| 確証バイアス | 仮説に合う事例だけを拾う観察者の偏り | 血・死・産が曝露場面と重なるのは拾いやすい。鶏の除外や、問病が「身不穢」であることは拾いにくい |
| 事後的な機能の読み込み | 今ある有用性を、起源や維持の理由として語る推論 | 「衛生に適っているから残った」は、これに当たる。日数の根拠は確認できなかった |
| 文化的な選択 | 世代間の選択的な学習などで、有益な実践が実際に残る過程 | 次に述べる |
四つ目の前に、確証バイアスに関わる点を一つ書く。穢れの規範は、結果として病者の遺棄を伴った。「役に立った」と言うなら、「害になった」も同じ規範の帰結として数える必要がある。片方だけを数えると、確証バイアスになる。
文化的な選択が実際に確かめられた例と、穢れの違い
文化的な選択が実際に測られた例はある。フィジーの妊産婦の食物タブーは、毒性の高い海産種を選択的に標的にしており、中毒率は妊娠中が年0.043、授乳中が0.027で、それ以外の成人期の0.070より低かった8。要旨は、これを30%と60%の低下と書く。表の平均値から単純に割ると約39%と約61%になり、30%の算出方法は本文では確かめられなかった。さらに、著者自身が、これらの結果はタブー自体が中毒を減らしたことを決定的には示さない、と留保している8。回想データであり、妊娠・授乳中の女性は他の要因にも影響されうるからだ。
それでも、この研究には穢れの議論に欠けているものがある。何が有益で、どこから伝わったかを、測っていることである。毒性の高い種が選ばれているか、中毒率はどうか、伝達経路は母か、年長の賢い女性か。穢れについて、同じ形の測定は今回確認できなかった。
また同じ研究は、毒性のない食物(陸上の肉、淡水ウナギなど)も、少数の人に忌避されていることを報告し、これを認知過程の副産物の可能性として論じている8。有益なものが残る過程には、無益なものも混ざる。
さらに、一般化は難しい。311の宗教集団・78の文化を比べた研究は、食物タブーの有無が病原体有病率と関連しなかったと報告している9。「病原体を避けるためにタブーができた」という説は、少なくともこの粗い指標では支持されなかった。
嫌悪の研究者自身が、穢れをどう置いているか
嫌悪を病原体回避の適応システムとして整理するカーティスらは、穢れのような規則を、衛生の「象徴的な拡張」と位置づけている。要旨は、集団の衛生が「純粋と汚染に関する文化的規則へ象徴的に拡張され、それが社会的な分離を作り、作法として強制される」と書く10。
つまり、嫌悪の機能説の側ですら、穢れの規則を「そのまま衛生」とは言っていない。嫌悪という感情が病原体のリスクと対応することと、穢れの規則が衛生として設計されたことは、別の主張である。
ほかの説明
穢れの規範が維持された理由を、衛生以外で説明する議論がある。シャイトは、穢れの概念、およびそれを定める神々が、仏教僧を、死とそれに伴う穢れを扱う専門家として際立たせる手段になったと論じる。穢れは「仏教の利益になる、仏教の外の概念」だった、という結論である2。
逆の側からの議論もある。フェダーは、汚染の信念を、感染症の広がりについての民間理論として、観察と経験に根ざして働いたものと見る。個々人の嫌悪だけでなく、文化的に受け継がれる信念が、病原体回避の行動を導いてきた、という立場である11。ただし、その論拠は古代近東の史料と現代の民族誌であり、日本の穢れを扱ったものではない。
どちらも、この回の結論を覆すものではない。ただし、「衛生ではなかった」と言い切るにも、「衛生だった」と言い切るにも、日本の史料で、同じ種類の議論を検証した研究が要る。今回の範囲では、そのような研究を確認できなかった。
医療との接続として
この回で確かめられたのは、おおよそ次のことである。
- 穢れの対象のうち、死・産・血を伴う過程・家畜の死は、曝露場面と重なって見える(対象の主張は、部分的に成り立つ)
- 条文が定めているのは参入と祭祀の制限であり、日数の根拠は確認できず、判定は着座で行われた(機能の主張は、確かめられない)
- 穢れの規範は、病者の遺棄の側にも働いた(「有益だった」だけでは足りない)
- 重なりが生まれたのは、穢れが衛生だったからではなく、平安後期に医学書の概念と出会ったからである(重なりは、後から作られることがある)
伝統的な慣習の「合理性」を評価するとき、私はこの回から三つの問いを持ち帰る。何を測って、有益だと言っているのか。害の側も、同じ熱心さで数えたか。誰の規範を見ているのか(朝廷か、民間か)。
この回で確かめられなかったこと
- 延喜式の条文は、中文維基文庫の転写から引き、国史大系(黒板勝美校訂、1900)の該当頁の画像と照合した。引用した条の本文は一致した。ただし国史大系の頭注には他本との異同の注記が複数あり(たとえば「問病」の「問」を林本は「訪」に作る)、すべては読み切れていない。神道大系(1991〜93)は確認していない
- 山本幸司『穢と大祓』、波平恵美子『ケガレの構造』など、日本の穢れ研究の主著は、引用論文経由でしか見ていない
- 民間での実践の実態。最古の規定が朝廷のものである以上、民間への広がりは別の史料が要る
- 日数の由来を扱った研究の有無。見つからなかったことは、存在しないことの証明ではない
- 水の停滞を穢れとする史料は確認できなかった。禊や祓では流水が罪穢を運ぶ構造が見られるが、今回は扱っていない
- シャイト(2020)とフェダー(2016)は、全文検索の抜粋と要旨で確認した。論文全体は通読していない
- ダグラス『汚穢と禁忌』の原典。穢れを「場違いの物」として説明する見方は、マコーマーの引用で確認した。衛生による説明への批判の該当箇所は確認していない
次回以降は、妖怪と疫病神、昔話の教訓を、同じ手順で確かめる。