歴史/2026-06-22
シシーが戴冠した日、1867年の大転換
ブダペストの街を歩いていると、「エルジェーベト」という名前にしょっちゅう出会う。エルジェーベト橋、エルジェーベト公園。これはオーストリア皇后エリザベート、愛称シシーのハンガリー語名だ。なぜハプスブルク家の皇后が、ここまでハンガリーで愛されているのか。その答えは、1867年にブダで起きたある出来事にある。
独立戦争の鎮圧から19年
話は1848年にさかのぼる。詩人ペテーフィ・シャーンドルらが「十二項目」という要求を掲げ、ハンガリーで革命が起きた。ハプスブルク家からの自治を求めた動きはやがて独立戦争に発展したが、ロシア帝国の介入もあって鎮圧され、その後ウィーンはハンガリーに中央集権化とドイツ語教育の強制など厳しい統制を敷いた。
転機が訪れたのは1866年。オーストリアが普墺戦争でプロイセンに敗れ、国力が大きく揺らいだ。弱体化したハプスブルク家は、もはやハンガリーを力だけで抑え続けることができなくなっていた。ここで交渉の道が開ける。
1867年6月8日、マーチャーシュ教会の戴冠式
1867年、双方の妥協(ハンガリー語で「キエジェゼーシュ」)が成立する。ハンガリーは独自の憲法・政府・国会を持つ一方、外交と国防、関税については帝国全体で共通とする「二重帝国」という独特の仕組みだった。オーストリア側を「ツィスライタニア」、ハンガリー側を「トランスライタニア」と呼ぶ、ヨーロッパでも珍しい二頭体制である。
同年6月8日、ブダの丘に立つマーチャーシュ教会で、フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートが正式にハンガリー国王・王妃として戴冠した。聖イシュトヴァーンの王冠が使われ、伝統に従ってエリザベートの頭上には冠が置かれず、代わりに右肩の上に掲げられたという。
ハンガリー語を学んだ皇后
このとき民衆の心を強くつかんだのが、皇后エリザベートだった。彼女は義母や周囲の反対を押し切ってハンガリー語を学び、ハンガリー側の立場に理解を示したと伝えられている。政治的な影響の大きさについては史料によって見方が分かれるものの、ウィーン宮廷とハンガリーの間を取り持つ存在として記憶されているのは確かだ。だからこそ、彼女の名は今も橋や公園に残り続けている。
この1867年の体制は、1918年に第一次世界大戦が終わるまで半世紀近く続いた。ブダペストで「エルジェーベト」の文字を見かけたら、戴冠式の日のことを少し思い出してみてほしい。

