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歴史2026.07.13

王をも縛る文書——1222年、ハンガリーのアラニュブッラ

「権力者も法に従わなければならない」——この当たり前のように聞こえる原則が文書として保障されたのは、中世ヨーロッパではそれほど昔のことではありません。イングランドでは1215年にマグナ・カルタが生まれましたが、ハンガリーでも7年後の1222年、よく似た精神を持つ文書が誕生しました。それが「アラニュブッラ(Aranybulla)」——直訳すれば「黄金の文書」です。ドナウ川沿いの王国でも、貴族たちが国王に立ち向かった瞬間があったのです。

なぜ生まれたのか——アンドラーシュ2世と貴族の反乱

アラニュブッラを発布させられたのは、ハンガリー王アンドラーシュ2世(在位1205〜1235年)です。彼は即位後、「新制度(nova instituta)」と呼ぶ政策のもとで外国人の廷臣に要職や広大な土地を惜しみなく与え続けました。王家の財産はみるみる目減りし、ハンガリー生まれの貴族・聖職者・騎士たちの怒りは頂点に達します。1222年、彼らは当時の首都ではなくセーケシュフェヘールヴァール(Székesfehérvár)の議会に集結し、王に圧力をかけました。アンドラーシュ2世は31ヶ条からなる文書に純金の封蝋(ブッラ)を押し、発布することを強いられます。この「黄金の封印」が名前の由来です。

何が書かれていたのか

31ヶ条の内容は幅広く、貴族と教会の権利を多方面から守るものでした。主なポイントを挙げると、貴族は正式な裁判なしに財産を没収されず投獄もされない、外国人に重要な官職や領地は与えない、貴族と聖職者は原則として課税を免除される、毎年聖イシュトヴァーン祝日(8月20日)に国王が民の訴えを直接聞く集会を開く——といった規定が含まれていました。

とりわけ注目すべきは、文書の末尾に記された「抵抗権(jus resistendi)」の条項です。もし王がこの文書の内容に違反した場合、貴族・聖職者は「反逆者と見なされることなく、王に抵抗する権利を持つ」と明記されました。書かれた文字が王権への制度的な歯止めとなったのです。これは当時のヨーロッパでも非常に先進的な考え方でした。

文書の写しは7部が作成され、ローマ教皇・テンプル騎士団・ヨハネ騎士団・ハンガリー国王本人・エステルゴムおよびカーロツァの大聖堂参事会・パラティン(宮廷伯)にそれぞれ一部ずつ保管されました。残念ながら黄金の封蝋を持つオリジナルは現存しませんが、後世の写本などからその全文が伝わっており、国立文書館に関連史料が所蔵されています。

その後の歴史——「黄金文書」は生き続けた

アラニュブッラはその後のハンガリー史において繰り返し参照され、更新・再確認されていきます。16世紀にオスマン帝国の占領が始まり、続いてハプスブルク家の支配下に置かれた時代にも、ハンガリー貴族たちはこの文書を「自分たちの権利の証し」として盾に取りました。近代以降もハンガリーの法学者や政治家たちが「ハンガリーのマグナ・カルタ」として誇りをもって語り継いでいます。2022年には発布から800周年を迎え、ブダペストでは特別展示や記念行事が開かれました。

マグナ・カルタと同様、アラニュブッラが定めた権利のすべてが当初から守られたわけではありません。でも「権力者も文書に縛られるべき」という考え方を制度として残したことの意義は大きい。留学中にブダペストの国会議事堂や国立博物館を訪れると、関連する展示に出会えることがあります。ハンガリーの歴史の深みを、ぜひ現地で感じてみてください。

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