ハンガリー日記

文化・習慣/2026-06-13

ハンガリー人がビールで乾杯しない理由

ハンガリーで友人と乾杯しようとビールのグラスを差し出したら、ふわりとかわされた——そんな経験をした旅行者は少なくない。「なぜ?」と聞くと、ハンガリー人は少し誇らしげな表情でこう答える。「ビールではカチンとやらないんだよ」。

1849年の誓い

この習慣の起源は、オーストリア・ハプスブルク帝国によるハンガリー支配が続いていた19世紀にさかのぼる。1848〜49年、ハンガリーは自由と独立を求めて蜂起した(いわゆる「ハンガリー革命」)。しかし革命軍はオーストリア・ロシアの連合軍に鎮圧され、1849年10月6日、アラードの町(現ルーマニア・アラド)で13人のハンガリー人将軍が処刑された。この日は今も「殉国の日」として記憶されている。

伝承によれば、処刑に立ち会ったオーストリアの将校たちがビールのグラスを打ち鳴らして勝利を祝ったという。その光景に怒りと悲しみを覚えたハンガリーの人々は、「150年間、ビールで乾杯しない」と誓い合ったとされる。史料による確認が難しい部分もあるが、この物語はハンガリー社会に深く根づき、世代を超えて語り継がれてきた。

150年が過ぎても続く習慣

誓いの150年が明けたのは1999年。「これでビールで乾杯できる!」と話題になった年だ。しかし実際には、今でもビールのグラスを合わせることを避けるハンガリー人は多い。習慣は法律でも強制でもないし、若い世代の中には気にしない人もいる。それでも「ビールではカチンとやらない」という意識は、家庭の食卓や友人同士の集まりでごく自然に受け継がれている。

ブダペストのバーやパブで観察していると、乾杯のとき仲間のグラスをさっと目で追いながらも、ビールのジョッキはそっと胸の高さで止める場面に気づくことがある。代わりにパーリンカ(ハンガリーの蒸留酒)やワインのグラスなら遠慮なく「Egészségedre!(エゲーシェーゲドレ、乾杯!)」と打ち合わせる。外国人が知らずにビールで乾杯を誘っても、たいていは穏やかに「ハンガリーの習慣でね」と教えてくれるので、気にしすぎなくて大丈夫だ。

誇りが生んだ日常の作法

日本でも食事のマナーや飲み方に地域や家庭ごとのルールがあるように、ハンガリーにもその土地の歴史が刻まれた作法がある。「ビールで乾杯しない」という一見小さな習慣の裏には、外国の支配に抵抗し続けた民族としての記憶と、仲間への連帯感が息づいている。

ハンガリーを訪れる機会があれば、バーでこの話を持ち出してみてほしい。きっと地元の人が目を輝かせて教えてくれるはずだ。そしてワインかパーリンカのグラスを手に、気持ちよく「Egészségedre!」と言い合える夜が待っている。