ハンガリー日記

歴史/2026-06-15

150年のオスマン支配——ハンガリーが三つに割れた時代

ブダペストの街を歩いていると、ところどころに古い石造りの建物や、独特のドーム型をした建築物が目に入ります。実はそれらのいくつかは、かつてこの地を150年以上にわたって支配したオスマン帝国の痕跡です。ハンガリー史のなかでもとりわけダイナミックなこの時代を、少し掘り下げてみましょう。

すべては1526年のモハーチから始まった

1526年8月、南部の平原都市モハーチ近郊で、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍が激突しました。これが「モハーチの戦い」です。当時オスマン帝国を率いていたのはスレイマン1世(大帝)——ヨーロッパにまで版図を広げようとしていた彼の軍勢はハンガリー軍を数で大きく上回り、わずか2時間ほどで勝負がついたと伝えられています。ハンガリー王ラヨシュ2世はこの戦いで命を落とし、王国は瞬く間に支配者を失いました。

この敗北を境に、ハンガリーは三つの地域に分断されます。中央部のほとんどはオスマン帝国の直接支配下に置かれ、西部・北部はハプスブルク家(神聖ローマ皇帝)が「王領ハンガリー」として統治、そして東部のトランシルヴァニア地方は半自治的な侯国として残されました。ひとつの国が三つに引き裂かれた——この状況は実に150年以上続くことになります。

占領下のブダ——オスマンの都市へ

1541年、首都ブダもオスマンの手に落ちました。以後、ブダはオスマン帝国のハンガリー州の中心地として機能します。モスクが建てられ、ハマム(公衆浴場)が整備され、街の景観は大きく変わっていきました。ブダペスト市内に今も残る温泉施設の起源の多くは、この時代に遡ります。「温泉の街」として知られるブダペストの文化は、オスマン時代なしには語れないのです。

一方で、長期にわたる戦乱と人口流出によって、かつて繁栄していた平原地帯は荒廃しました。多くの村が消え、農地は放棄され、ハンガリー人の人口は大きく減少したと歴史家たちは指摘しています。占領は文化的な痕跡をもたらしつつも、社会的には大きな傷跡を残しました。

解放、そして新たな支配者へ

1683年、オスマン軍はウィーンの包囲に失敗します。この敗北を機にハプスブルク帝国を中心とするキリスト教同盟が反攻に転じ、1686年にはついにブダを奪還。150年以上続いたオスマン支配はここで幕を閉じます。

しかしながら、解放されたハンガリーを待っていたのは独立ではありませんでした。今度はハプスブルク帝国の強い管理下に置かれることになり、ハンガリーの完全な自立はさらに先まで待たなければなりませんでした。「オスマンから解放された」という喜びと「ハプスブルクの支配が続く」という現実——複雑な感情が交差するなかで、ハンガリーは近代へと向かっていきます。

モハーチの戦いから解放まで160年。この時代の記憶はハンガリー人のアイデンティティに深く刻まれており、「モハーチ」という言葉は今でも「大きな敗北・悲劇」を表す慣用表現として使われることがあります。歴史の重みを感じながら温泉に浸かると、また違った景色が見えてくるかもしれません。