ラーコーツィ通りの名前の秘密
ブダペストの街を歩いていると、「ラーコーツィ通り(Rákóczi út)」という大きな通りの名前をよく見かけます。ブラハ・ルジャ広場からケレティ駅まで続くこの通りは、市内でも有数の賑やかなエリアです。留学生活を始めたばかりの頃、なぜこんなに立派な通りに人の名前がついているのだろうと不思議に思っていました。調べてみると、その答えは18世紀初頭、ハンガリーの自由のために立ち上がった一人の貴族の物語にたどり着きました。今日はその人物、ラーコーツィ・フェレンツ2世と、彼が率いた独立戦争について書いてみたいと思います。
蜂起の始まり――一人の貴族の決断
17世紀末、150年近く続いたオスマン帝国の支配からハンガリーは解放されましたが、その後を治めたハプスブルク家は重税と中央集権化を進め、人々の不満は募っていきました。トランシルヴァニアの大貴族だったラーコーツィ・フェレンツも例外ではありません。ハプスブルク家への陰謀に関わったとして一度は投獄されますが、劇的な脱獄を経てポーランドへ亡命します。1703年、故郷でくすぶっていた農民や下級貴族たちの蜂起(クルツ)から指導者として招かれ、ハンガリーへ戻りました。彼が掲げた「神と共に、祖国と自由のために(Cum Deo pro Patria et Libertate)」という言葉は、今もハンガリーで語り継がれるモットーです。
「祖国と自由のために」の8年間
1705年、セーチェーニで開かれた身分制議会は彼を「統率公(Vezérlő Fejedelem)」に選出し、ハンガリー各地の貴族や農民をまとめる連合の中心に据えました。フランスのルイ14世からの支援も期待されましたが、決定打となるほどの軍事協力は得られず、戦況は次第に厳しさを増していきます。1708年のトレンチェーンの戦いでの敗北は大きな転機となり、クルツ軍は徐々に劣勢に追い込まれていきました。
敗北のあとに残ったもの
1711年、ラーコーツィの将軍サーンドル・カーロイがハプスブルク側とサトマールの和約を結び、8年に及ぶ戦いは終わりを迎えます。恩赦の条件を拒んだラーコーツィ自身は祖国に戻ることなく、オスマン帝国領のロドシュト(現在のトルコ・テキルダー)で亡命生活を送り、1735年にその地で生涯を閉じました。戦いそのものは敗北に終わりましたが、彼の名は「ラーコーツィ行進曲」として音楽の中に残り、リストやベルリオーズもこの旋律を作品に取り入れています。ブダペストの通りや広場に今も残るその名前は、勝敗を超えて人々の記憶に刻まれた証なのだと思います。
歴史の教科書では数行で終わってしまいそうな出来事も、実際に街を歩きながら知ると、通りの名前ひとつにも重みを感じられるようになります。次にラーコーツィ通りを通るときは、300年以上前にこの地で「自由」を掲げた人がいたことを、少しだけ思い出してみてください。

